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2008年 08月 20日
母の誕生日であったが、
この日は、 夜は浄土寺さんの施餓鬼法要の日で、 栄福寺の施餓鬼の前日でもあるので、 バタバタと過ぎてしまう。 少々、気の毒だけど、 これも運命である。 ケーキでも買って帰ろうかと思ったけれど、 お盆で頂いたお菓子がまだあるので、 喜ばれないだろうと思って、 やめておいた。 夜のお施餓鬼は、 温泉がある鈍川の地域の人達が集まって、 なかなかにぎやかだった。 時々、 日帰り温泉で会うおっちゃんが、 いたので挨拶をしたら、 「おっさん!(お坊さんの事) また温泉で会いましょうー。 我々は裸の付き合いをしてるからねー。」 と仲間のおじさんに言っていた。 「そりゃあ、ええわい。」(それは、いい。) とおじさんは、返していた。 *** 昨日、「見かけの美しさ」について、 文章を書いた事を続いて考える内に、 古い(様式の)お寺の建物とかに、 人が気持ちがよくなる理由が、 少しわかりやすい気がした。 建物だから当然、 人の考えた、 人為的なものなのだけど、 長い時をへる事で、 まるで、 川に流された石が、 まん丸になるみたいに、 少しずつ、 「自然に似てくる。」 のかな。 そして、 本当は天然100パーセント、 自然のかたまりである、 人間の体と心は 人が自然に似てきた事を、 喜ぶ、 そういうことかもしれない。 「死」なんかも、 とらえようによっては、 だんだん、 人間がさらに「自然」に近づいてくる過程とも思える。 でも、 もしかしたら、 日本の宗教、仏教に足りない部分があるとしたら、 「人為」 の部分かもしれない。 「なんとなく自然に」 寄り添う、 僕たちの心は、 いい部分もたくさんあるけれど、 「自然」とうまく付き合いながらも、 もっと、 「ここはこうして、こうしてみよう。」 という部分が あってもいいかもしれない。 仏教は、 とても論理的な部分が大きい 教えでもあると思いますし。 そして、 僕たちの持つ、 「自然なあいまいさ」 が、 かつて致死量の暴力性を帯びた事を、 僕たちはどこかで、 心にとどめておくべきだと思う。 (致死量の暴力性を帯びていない社会が、 かつて世界にあったかと問われれば、 僕はうまく答える事ができないけれど・・・。) 自然と、 人為的な「論理」の対決ではなくて、 バランスシートを整える、 シーソーゲームが、 僕たちの生活を気持ちよくする、 ちょっとした、 ヒントになってくるかもしれないね。
by missei57
| 2008-08-20 20:00
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